金の卵に変身した土地

当時・・・


つまり昭和50年頃は、そのような土地を喜んで買う民間企業はありませんでした。


千葉県企業庁は日本住宅公団に埋立地を買わないかと相談しました。


日本住宅公団も当時は不良資産とみなされていた土地をたくさんもっていましたから、自分のところでも困っているのに、相手の面倒は見られないということでなかなか買いません。


千葉県企業庁は、埋立地をそのまま処分するのではなく、それらに千葉県庁としてある程度認知した都市計画を立てておくことで、その土地に付加価値をつけて売ることを考えたのです。


・・・つまり企業庁のもっている土地を高く売るために、ここは県庁も後ろ盾になって素晴らしい住宅団地をつくろうとしているのだと宣伝をします。


そして、日本住宅都市整備公団(通称住都公団)に引き取ってもらった例があります。


その場所が浦安市の京葉線の駅の南側の、浦安ニ期と呼ばれる埋立地です。


それを住都公団は安い値段で引き取ったわけですね。


この埋立地は将来不良資産化する土地であると住都公団にみなされていたといっていいでしょう。

千葉の土地 4

その間のニュータウンですから、新幹線が走れば、東京まで1時間くらいで通勤できる住宅地になると考えたのです。


・・・ところが国鉄も新幹線はつくらないし、京成電車との兼ね合いもあって、運輸省もその鉄道建設のあと押しをしませんでした。


鉄道がつくれなければニュータウンは成立しません。


住宅公団も始めの頃には土地を買うことを渋っていました。


団地をつくってもお客さんが入りません。


それでそこの投資がまったく回収できなくて、苦境に陥ったのです。


企業庁はいってみれば自治体の不動産会社のような組織です。


資金は自前でやりくりしなければなりません。


金融機関から借りた資金の元利返済のためには、どこかを売らなければなりません。


そのためにいくつかの土地を安い値段で売りに出したのです。


千葉の土地 3

田圃の中に簡単な埋め立てをして、現在もあちらこちらでみられるような小さな建売住宅用地を次から次とつくっていきました。


値段が安いので売れていました。


ところが50年以降はまったく買い手がなくなって、売れなくなりました。


それでこの建設会社は資金繰りが悪くなって、それが原因になって破産したのです。


大手の建設会社や不動産会社も昭和40年代の列島改造論ブームにのって手当り次第に土地を買っていましたが、列島改造論ブームの後始末やオイルショック後の地価の停滞のために大変な苦労をしました。


50年代初期は土地を買う人がいなくなっていたのです。


千葉県企業庁もその動向に巻きこまれてしまいました。


千葉県企業庁が苦しんだ大きな原因の一つに千葉ニュータウンがあります。


昭和45年頃、列島改造論ブームの前から印旛沼の近くに、多摩ニュータウンのむこうをはって人口が30万人以上という千葉ニュータウンを計画し、その用地取得を始めていました。


そして千葉ニュータウンを貫通して、成田空港から東京まで新幹線を走らせようとしたのです。


そうすると東京から成田空港まで30分くらいで行けるのです。

千葉の土地 2

地方自治体の埋立事業は企業の経営と似ています。


資金を金融機関から借りて埋め立てをし、その造成地を売却して資金を回収し、回収したお金で次の埋め立てをする方式をとります。


つまりお客さんがこないとうまく資金が回転しないのです。


そして昭和50年前後にオイルショックが発生しました。


オイルショックの後に土地の値段が全国的に下がったのです。


・・・ということは土地の需要がなくなったわけです。


今から考えると不思議に思えますが、東京にどんどん人口は集中しているのにもかかわらず、千葉では埋立地が売れなくなりました。


内陸部のニュータウンの住宅地も売れなくなりました。


当時、今から考えれば誰もが飛びつくような住宅団地、つまり都心から電車に乗って40分くらいの郊外で住宅地をつくっていたいくつもの建設会社が、不況に追い込まれるという状況も出てきました。


その一つの例で有名なのは、ある長期信用銀行系列の建設会社でした。


その建設会社は当時あまりいい住宅をつくっていなくて、庶民型住宅をつくっていました。

千葉の土地

戦後の新鋭工場は、次々と京葉の臨海工業地帯に立地を始めました。


そういう状況に支えられて、千葉県の埋立地は、昭和30年代から40年前半までは良い値段で売れたのです。


当時、千葉県は田舎の県でした。


知的労働者が多く集まっていたわけではありません。


若手の未熟練労働力がブルーカラーとなって、湾岸に立地した工場やそれに派生する下請け企業で働くようになりました。


このために千葉県の労働力の需給関係はバランスがとれ、失業問題も深刻にならありませんでした。


昭和30年代は千葉県が一生懸命に埋立地をつくって工場を誘致した時代でした。


そのきっかけとなったのは川崎製鉄です。


川崎製鉄の場所はもともと陸軍の飛行場用地でした。


日本が負けて、昭和24年頃に全国の軍用地の払い下げが行われたことがあります。


当時は何の役にも立たない軍用地と考えられていたので誰も買いにいかなかったのです。


それを当時の川崎製鉄の西山社長が手に入れて製鉄所をつくりました。


それが見事に成功し、それ以来日本の大企業が千葉の埋立地にくるようになりました。

業務核都市構想とは 2

地価高騰の現象と、まとまった大規模な土地がいろいろな社会情勢の変化によって、業務核都市に生れるという状況が同時に発生したと理解したほうが、正しい見方でしょう。


それがMM21と大宮と立川の話です。


このように新しい都市計画を大規模な空地に展開しなければならない社会的環境が成熟してきて、国も地方自治体も具体的な事業をそこにおこさなければならなくなってきました。


それでようやく業務核都市構想が動き出したのです。


・・・一方、千葉は大宮や横浜そして東京と事情が異なり、面白い面をもっています。


千葉県は戦後に埋め立てを猛烈に進めた県です。


千葉県の湾岸は浦安から木更津まで、昔は海水浴や潮干がりができる遠浅な地形でした。


したがって埋め立ては大変容易で、埋立費用も安かったのです。


企業側からみて、日本の経済が急速に発展してきた昭和30年代の半ば頃から、東京都は製品の最大の消費地になってきました。


そこに近いところで油をつくったり、鉄をつくったり、あるいは化学製品をつくれば、輸送コストが安いし、質のいい労働力を確保するのも容易でした。


しかし、京浜の臨海工業地帯には戦前からすでに、財閥が工場を立地させていました。


あいている埋立可能地は千葉にあったのです。

業務核都市構想とは

業務核都市構想に位置付けられた横浜市のオフィス移転用地・・・


ここは、港湾の埋め立て、旧港の用途転換、造船所用地の活用という3つの社会的経済的動向が結びついて、MM21計画のなかに生れてくることになりました。


同時に東京港も、竹芝桟橋のあたりを埋め立てて、より高度なオフィス用地にした方が良いという動きが出てきました。


大宮・浦和では、大宮の操車場が、国鉄の解体によってオフィス移転用地になる可能性が生じてきました。


立川・八王子では、20年くらい前に立川飛行場がアメリカ軍から返還され、自由に使える国有地として生れ変わっています。


ここにはすでに自衛隊用の飛行場や国の防災基地が設けられていますが、その他に都市的土地利用に使える土地が捻出されました。


その国有地をどのように処分したらいいかということになりました。


すなわちいろいろなちがう動きが、ほぼここ15年から20年くらいの時期に連続して発生してきたのです。


一般的な社会の理解としては、最近の地価高騰のために、土地の造成価格が安い東京湾のウォーターフロントに新しい都市づくりの動きが広がったと思われています。


しかし、実際にはそうではありません。

日本上陸の第一歩

昔、安禄山という人がいました。


この人物は幼にして狡く、かつ天才といわれ、玄宗の寵を得て、貿易官から節度使に進み、やがて北方で大勢力を張りました。


755年には長安を陥れたので、玄宗は宮中を逃げ出すことにもなり、華北を戦乱の地と化せしめ、彼自身も息子に殺される(757年)にいたっています。


ここで話は沖縄ツアーで人気のある沖縄にうつります。


こんな風に遣唐使が往来した時代には、この南島沖縄に漂着する例が珍しくなかったのです。


遣唐使は630年を皮切りに、9世紀末の廃止になるまで15回におよび、一行は正使、副使以下留学生、留学僧、船員など、およそ500人が、4隻の船に分乗して出かけました。


航路は幾通りもありましたが、その一つは、沖縄列島の近海から南シナ海を横断しました。


多額の費用をかけ、海難と戦って出かける遣唐船が、全員揃って帰国した例は殆どなかったといわれています。


日本は唐の朝貢国でしたし、その義務をまもらないわけにはいかなかったのです。


文化の吸収は結果であって少くとも目的ではありませんでした。

働く女性たち

派遣 千葉で働く女性たちのなかには、男性側の独断・偏見に困らされている方も多いでしょう。


しかし、そうしたビジネスの世界の状況につき、いちいち腹を立てないことです。


わたしの尊敬するあるキャリアウーマンは、後輩の女性たちへのアドバイスとしても、「無理に肩に力を入れず、また過剰な女性意識も持たず、自然に生きなさい」と語っていました。


別な女性課長ですが、当時、「ビジネスの世界で、女性であることのマイナス要素」を次のように語ってくれた人もいます。


「女性管理職は、根回しが下手だなどといわれるけど、無理もないと思うの。


だって男性社員は、たくさんの先輩がおり、仕事のなかでも、あるいは酒の席なんかでも、いろいろと社内を動かすノウハウを教え伝えられているけど、私たち女性の場合は、女性の先輩がゼロか、いてもごくわずかで、教え伝えられていないわけ。


だから管理職になったら、公式の職務だけでなく、テキストに出てこないノウハウなどを、男性の仲間から学びとらなければ、不十分なのね」


このあたりに、現時点における「キャリアウーマン」論、ひいては「女性」論、あるいは対照としての「男性」論を深めるための大きなカギがあると思います。


論議の方法としていってみれば、「男女の本質的な差異」に注目するアプローチではなく、徳川時代このかたの「男女の社会的なトレーニングと、その歴史的な蓄積の差異」に注目するアプローチが、そのカギでしょう。

分別収集と選別回収のドッキング

東京は可燃ごみ、分別ごみ、および粗大ごみという、3種目の分別収集をしています。


この点では可燃、不燃の区別をしていない横浜や大阪、川崎とは異なった特徴を持つ収集システムを採用しているのですが、実際の清掃事業においてはそれを十分に生かしているとはいえません。


分別ごみにしても粗大ごみにしても、収集後の段階での選別回収が、不徹底なままにとどまっているからです。


もちろん、現行の分別収集には混合収集に比べてプラスチックごみを分別ごみに入れ、これによってプラごみの焼却量を少なくするなどの、ごみ処理面から見たメリットはいくつかあるでしょう。


けれども、それに加えて、分別ごみや粗大ごみのリサイクルのために現行の分別収集のメリットをリサイクルトナーのようにもっと生かす努力がなされることこそ、それに要する経費の増分を負担し、日常の生活においてそれに協力している住民への都の責務といえるでしょう。


この要請に応えるための方策は、リサイクルセンターを新設・整備して、分別ごみの選別回収を徹底的に行うことです。


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